2006年03月16日
オヤケアカハチ考その7
那覇公演までいよいよ10日です。
追い込みの作業が多くて慌ただし毎日を過ごしています。
ここで、チョッと息抜き。
大濱長照石垣市長が熱心に語る、「オヤカアカハチ・ホンガワラ」=朝鮮の英雄「洪吉童:ホンギルトン」を考証してみましょう。
物語り「洪吉童伝」は朝鮮時代の学者であり小説家でもある許筠(ホ・ギュン 1569~1618年)が書いた最初のハングル小説です。洪吉童は、意のままに姿を変える遁甲術まで使って、悪を罰し、民を助ける義人として登場します。しかし、洪吉童は1440年頃に生まれた実在の人物でもあり、彼を題材とした北朝鮮初のアクション時打劇「ホンギルトン」は次のようなストーリーが展開されます。

洪吉童のテーマパークを造っているという韓国長城のHPより
朝鮮の高官の息子だが、正室の子ではない洪吉童は、酷い差別を受けて育ちます。ある日、盗賊に襲われかかった所を、妖術を使う老人に救われ、弟子入りして山に籠もり様々な特訓を受けます。特訓を終えて家へ戻ると、正室による母への虐待が酷く、日増しに弱っていく母。ある日、正室の放った刺客により暗殺されそうになった洪吉童は、遂に家出をし、貧しい庶民を助ける義賊になります。
そのころ巷では、黒装束の盗賊集団が、貴族・庶民を問わずに、暴行・殺人拉致を繰り返しています。映画では何故か日本の忍者になっていますが?。
農民軍と力を合わせ忍者を追い払った洪吉童の功績は、国王にたたえられ、「なんでも望みをかなえてやる」と言われます。洪吉童の二つの望み「民衆を圧制から解放すること」を願い、聞き容られる。だがもうひとつの望み「大臣の娘でとの結婚」は許されませんでした。妾の子と、貴族の娘の結婚を許したら、上下貴賎の社会構造が崩れるという理由です。
絶望した洪吉童は、愛する人、同志と一緒に国を捨て、夕焼けの大海原へ、帆船に乗って旅立ちます。
そして、今韓国の小学校の教科書では、洪吉童が日本の沖縄に渡って「オヤケアカハチ・ホンガワラ」という名前の尊敬される指導者として活動していたといわれ、そこでも民を苦しめる首里王府に対抗して戦っていると教えています。
「オヤケアカハチ・ホンガワラ」と呼ばれていますが、八重山では「オヤケアカハチ」「ホンガワラ」と二人いた説もあり定かではありませんが、「ホンガワラ」&「ホンギルトン」
何やら似た響きも有るような無いような・・・・
歴史に残っている風体では西洋人のようにも思えますが・・・・
洪吉童の詳細は
http://jangseong.jeonnam.kr/jpn/sub_03/sub01_01.html
に詳しく紹介されていますが、それによると「アカハチ」と完全にダブっており、その後久米島で日中貿易をしたり、次男が具志川城を造ったり(子孫も居たのか~)、沖縄列島の海上王国を作ったりと、凄まじい活躍で、大綱引きや琉球の医学も彼の伝えになると表しています。
立場変われば~~やらで、「オヤカアカハチ」偉人でもあり、人騒がせでもあり、興味の尽きないところです。
つづく
追い込みの作業が多くて慌ただし毎日を過ごしています。
ここで、チョッと息抜き。
大濱長照石垣市長が熱心に語る、「オヤカアカハチ・ホンガワラ」=朝鮮の英雄「洪吉童:ホンギルトン」を考証してみましょう。
物語り「洪吉童伝」は朝鮮時代の学者であり小説家でもある許筠(ホ・ギュン 1569~1618年)が書いた最初のハングル小説です。洪吉童は、意のままに姿を変える遁甲術まで使って、悪を罰し、民を助ける義人として登場します。しかし、洪吉童は1440年頃に生まれた実在の人物でもあり、彼を題材とした北朝鮮初のアクション時打劇「ホンギルトン」は次のようなストーリーが展開されます。

洪吉童のテーマパークを造っているという韓国長城のHPより
朝鮮の高官の息子だが、正室の子ではない洪吉童は、酷い差別を受けて育ちます。ある日、盗賊に襲われかかった所を、妖術を使う老人に救われ、弟子入りして山に籠もり様々な特訓を受けます。特訓を終えて家へ戻ると、正室による母への虐待が酷く、日増しに弱っていく母。ある日、正室の放った刺客により暗殺されそうになった洪吉童は、遂に家出をし、貧しい庶民を助ける義賊になります。
そのころ巷では、黒装束の盗賊集団が、貴族・庶民を問わずに、暴行・殺人拉致を繰り返しています。映画では何故か日本の忍者になっていますが?。
農民軍と力を合わせ忍者を追い払った洪吉童の功績は、国王にたたえられ、「なんでも望みをかなえてやる」と言われます。洪吉童の二つの望み「民衆を圧制から解放すること」を願い、聞き容られる。だがもうひとつの望み「大臣の娘でとの結婚」は許されませんでした。妾の子と、貴族の娘の結婚を許したら、上下貴賎の社会構造が崩れるという理由です。
絶望した洪吉童は、愛する人、同志と一緒に国を捨て、夕焼けの大海原へ、帆船に乗って旅立ちます。
そして、今韓国の小学校の教科書では、洪吉童が日本の沖縄に渡って「オヤケアカハチ・ホンガワラ」という名前の尊敬される指導者として活動していたといわれ、そこでも民を苦しめる首里王府に対抗して戦っていると教えています。
「オヤケアカハチ・ホンガワラ」と呼ばれていますが、八重山では「オヤケアカハチ」「ホンガワラ」と二人いた説もあり定かではありませんが、「ホンガワラ」&「ホンギルトン」
何やら似た響きも有るような無いような・・・・
歴史に残っている風体では西洋人のようにも思えますが・・・・
洪吉童の詳細は
http://jangseong.jeonnam.kr/jpn/sub_03/sub01_01.html
に詳しく紹介されていますが、それによると「アカハチ」と完全にダブっており、その後久米島で日中貿易をしたり、次男が具志川城を造ったり(子孫も居たのか~)、沖縄列島の海上王国を作ったりと、凄まじい活躍で、大綱引きや琉球の医学も彼の伝えになると表しています。
立場変われば~~やらで、「オヤカアカハチ」偉人でもあり、人騒がせでもあり、興味の尽きないところです。
つづく
2006年02月20日
オヤケアカハチ考その6
この時アカハチは策を巡らせます。まず、新川の海岸に押し寄せて来る首里軍の目を欺くため、水甕にアダン葉で作った蓑笠を着せて並べた。首里軍は数千の矢を雨のように降らせたが、並んでいるの水瓶であり、首里軍はその策に驚いた。
同行していた久米島の最高神女の君南風が、姉妹神の於茂登照の神に願をかけると、「アカハチは優れた武将だから、普通では勝てない。筏に火を灯しそれに目が向いている間に攻めればよい。」というお告げがあった。
首里軍は教えのまま、竹で沢山の筏を作り、それに火をかけて登野城に向けて流した。アカハチは、敵襲とばかり味方の軍勢を筏が流れて行く登野城方面に回すと、首里軍は裏をかき、新川の海岸から上陸した。互いの囮作戦である。
しかしアカハチが、島中の人を集めていくら戦っても、三千の兵とまともに戦うことはできなかった。やがて、首里軍に追われた赤蜂は於茂登山の麓、底原(そこばる)に逃げた。(現在のロックフィル式の大きなダムの下の方にある水田地帯と云われている。)
しかし遅れて来た古乙姥は首里軍に捕まってしまう。首里軍はアカハチの居場所を聞き出すために古乙姥の足に脛枷(スネカセ)噛ませて拷問した。しかし、古乙姥は最後まで白状しなかった。それを木に登って身を潜めていたアカハチは等々いたたまれなくなり、「アカハチはこっちに居るぞ。」と叫ぶ。アカハチは首里軍に矢を射掛けられ応戦した。
多くの敵兵を倒し、逃げ回ったがさすがに疲れていたので、敵がいないのを確かめて、茅を敷いて寝た。しかし、休む間もなく敵が追ってきたので、武名田原(ぶなたばる)の水田に沈み、蓮の茎をストローのように使い水中で息をして隠れていた。追っ手は探し回ったが見つからず、帰り掛けようとするとたまたま探った槍の先の水中が真っ赤に染まり、アカハチは見つかってしまい、泥田の中で最期をとげることになる。
終戦後、オヤケアカハチは地元で再評価され、大浜の人達が昭和28年に崎原公園内に顕彰碑を建立した。

戦乱のときに殺された古乙姥は、姉の真乙姥を祀る真乙姥御嶽の入口近い場所に葬られたといわれ、泡石で作られた平らな墓は蝸牛墓(つだみばか)呼ばれており、毎年の四箇の綱引きのときに裏切り者として踏まれていた。
実際にはその下に古乙姥の遺骨は埋まっておらず、昭和45年に大浜の人達の度重なる要望で、赤蜂たちの骨を探すことになる。
今の真乙姥御嶽の司の代々の伝えにより、真乙姥御嶽の後ろに泡石の石組みが見つかり、その下から遺骨が掘り出された。これはアカハチの物とも古乙姥の物とも言われているが、大浜へ運ばれ赤蜂の顕彰碑の下に納められた。

ところが4年前に遺骨の出た近くに同様の泡石の石組みが見つかり、それを開けてみたところ骨壺が出てきた。当時に関係者は、反逆者といわれた二人にしては立派な壺のため、中を確かめることもせず、再び埋め戻したという。
大浜村の伝えでは、アカハチは時の王府の手により歴史上から抹殺されようとしたようで、関係する全ての物の所在は不明といわれている。
現代ではDNA鑑定でもしたら判明するのでは等と言う輩もいるが、謎は多い方がそれぞれの夢として語り継がれるだろう。
仲間満慶山の遺品は現在でも川平の末裔の手で、衣装から食器まで大事に保管されていることを考えると、複雑な思いが残る。
つづく やいま浪漫の会
同行していた久米島の最高神女の君南風が、姉妹神の於茂登照の神に願をかけると、「アカハチは優れた武将だから、普通では勝てない。筏に火を灯しそれに目が向いている間に攻めればよい。」というお告げがあった。
首里軍は教えのまま、竹で沢山の筏を作り、それに火をかけて登野城に向けて流した。アカハチは、敵襲とばかり味方の軍勢を筏が流れて行く登野城方面に回すと、首里軍は裏をかき、新川の海岸から上陸した。互いの囮作戦である。
しかしアカハチが、島中の人を集めていくら戦っても、三千の兵とまともに戦うことはできなかった。やがて、首里軍に追われた赤蜂は於茂登山の麓、底原(そこばる)に逃げた。(現在のロックフィル式の大きなダムの下の方にある水田地帯と云われている。)
しかし遅れて来た古乙姥は首里軍に捕まってしまう。首里軍はアカハチの居場所を聞き出すために古乙姥の足に脛枷(スネカセ)噛ませて拷問した。しかし、古乙姥は最後まで白状しなかった。それを木に登って身を潜めていたアカハチは等々いたたまれなくなり、「アカハチはこっちに居るぞ。」と叫ぶ。アカハチは首里軍に矢を射掛けられ応戦した。
多くの敵兵を倒し、逃げ回ったがさすがに疲れていたので、敵がいないのを確かめて、茅を敷いて寝た。しかし、休む間もなく敵が追ってきたので、武名田原(ぶなたばる)の水田に沈み、蓮の茎をストローのように使い水中で息をして隠れていた。追っ手は探し回ったが見つからず、帰り掛けようとするとたまたま探った槍の先の水中が真っ赤に染まり、アカハチは見つかってしまい、泥田の中で最期をとげることになる。
終戦後、オヤケアカハチは地元で再評価され、大浜の人達が昭和28年に崎原公園内に顕彰碑を建立した。

戦乱のときに殺された古乙姥は、姉の真乙姥を祀る真乙姥御嶽の入口近い場所に葬られたといわれ、泡石で作られた平らな墓は蝸牛墓(つだみばか)呼ばれており、毎年の四箇の綱引きのときに裏切り者として踏まれていた。
実際にはその下に古乙姥の遺骨は埋まっておらず、昭和45年に大浜の人達の度重なる要望で、赤蜂たちの骨を探すことになる。
今の真乙姥御嶽の司の代々の伝えにより、真乙姥御嶽の後ろに泡石の石組みが見つかり、その下から遺骨が掘り出された。これはアカハチの物とも古乙姥の物とも言われているが、大浜へ運ばれ赤蜂の顕彰碑の下に納められた。

ところが4年前に遺骨の出た近くに同様の泡石の石組みが見つかり、それを開けてみたところ骨壺が出てきた。当時に関係者は、反逆者といわれた二人にしては立派な壺のため、中を確かめることもせず、再び埋め戻したという。
大浜村の伝えでは、アカハチは時の王府の手により歴史上から抹殺されようとしたようで、関係する全ての物の所在は不明といわれている。
現代ではDNA鑑定でもしたら判明するのでは等と言う輩もいるが、謎は多い方がそれぞれの夢として語り継がれるだろう。
仲間満慶山の遺品は現在でも川平の末裔の手で、衣装から食器まで大事に保管されていることを考えると、複雑な思いが残る。
つづく やいま浪漫の会
2006年01月23日
オヤケアカハチ考その5
仲間満慶山(ナカマミツケーマ)英極と獅子嘉殿(シシカドゥン)
長田大主を逃したアカハチは、大浜の住民と一緒になって島内で戦う味方を集めようとします。まずアカハチは川平の豪族「仲間満慶山」と相談することなります。
仲間満慶山は、平家の落ち武者の子孫で文武に優れた人物だったといわれて、川平の英雄と今でも慕われています。。
仲間満慶山はアカハチから呼ばれ川平を出るとき、長男が心配して同行を申し出たが、それを断りアカハチと会う約束をした真栄里まで馬に乗り一人で会いに来ます。アカハチは仲間満慶山に一緒に戦おうと説得しますが、仲間満慶山はアカハチと共に首里王府と戦うことを断ります。
仲間満慶山が断った理由は、首里王府の大きさを認識しており、王府に弓を引くことは逆臣・逆賊になってしまう。武力・財力共に圧倒的な力を持った首里王府との争いに、罪もない島民を巻き込みたくない、というものでした。
しかし、決裂した話し合いの後、アカハチは仲間満慶山が帰る道の途中のケーラ崎(斬りつけるの意)の海辺近くに落とし穴を造って待ち伏せし、馬で帰る途中の仲間満慶山を討ち取ります。現在、ケーラ崎には「仲間満慶山終焉の地」という手の形のような石碑が建っており、季節の花が絶えません。市街地から川平へ向かう途中の名蔵湾沿いにある「石垣島焼」の近くに有ります。

仲間満慶山の墓は、海水浴場として知られる底地ビーチの東端の断崖の途中「ヤドゥピケと呼ばれる場所に祀られており、子孫の手により管理されています。

仲間満慶山の墓(劇団員史跡巡りより)
また、底地ビーチの駐車場脇には長編叙事詩「オヤケアカハチ」を書いた、伊波南哲の碑が建っています。

伊波南哲の碑
次に、アカハチは波照間島の獅子嘉殿を仲間に入れるため、強力者の嵩茶(タケチャ)を使者として波照間に送った。しかし、その獅子嘉殿も一緒に戦うことを断ったため、嵩茶は獅子嘉殿に、「アカハチと会って話しをして欲しい」と誘い出し。船に乗せて石垣へ向かう途中、狭い船上で獅子嘉殿の力を封じ殺して海に捨ててしまう。その死体は小浜に流れ着いたという。嵩茶は歴史には余り記録が見られないが、「オヤケアカハチ~太陽の乱~」では、アカハチをサポートする重要な役で登場する。
この後、宮古へ逃れた長田大主からの報告で、宮古の仲宗根豊見親が首里王府にアカハチの状況を知らせる。
首里王府は、ついに沖縄本島・久米島・宮古から兵を集め、百隻の船に三千名の兵を乗せて、赤蜂征伐に動き出します。
続く 文責 やいま浪漫の会
長田大主を逃したアカハチは、大浜の住民と一緒になって島内で戦う味方を集めようとします。まずアカハチは川平の豪族「仲間満慶山」と相談することなります。
仲間満慶山は、平家の落ち武者の子孫で文武に優れた人物だったといわれて、川平の英雄と今でも慕われています。。
仲間満慶山はアカハチから呼ばれ川平を出るとき、長男が心配して同行を申し出たが、それを断りアカハチと会う約束をした真栄里まで馬に乗り一人で会いに来ます。アカハチは仲間満慶山に一緒に戦おうと説得しますが、仲間満慶山はアカハチと共に首里王府と戦うことを断ります。
仲間満慶山が断った理由は、首里王府の大きさを認識しており、王府に弓を引くことは逆臣・逆賊になってしまう。武力・財力共に圧倒的な力を持った首里王府との争いに、罪もない島民を巻き込みたくない、というものでした。
しかし、決裂した話し合いの後、アカハチは仲間満慶山が帰る道の途中のケーラ崎(斬りつけるの意)の海辺近くに落とし穴を造って待ち伏せし、馬で帰る途中の仲間満慶山を討ち取ります。現在、ケーラ崎には「仲間満慶山終焉の地」という手の形のような石碑が建っており、季節の花が絶えません。市街地から川平へ向かう途中の名蔵湾沿いにある「石垣島焼」の近くに有ります。

仲間満慶山の墓は、海水浴場として知られる底地ビーチの東端の断崖の途中「ヤドゥピケと呼ばれる場所に祀られており、子孫の手により管理されています。

仲間満慶山の墓(劇団員史跡巡りより)
また、底地ビーチの駐車場脇には長編叙事詩「オヤケアカハチ」を書いた、伊波南哲の碑が建っています。

伊波南哲の碑
次に、アカハチは波照間島の獅子嘉殿を仲間に入れるため、強力者の嵩茶(タケチャ)を使者として波照間に送った。しかし、その獅子嘉殿も一緒に戦うことを断ったため、嵩茶は獅子嘉殿に、「アカハチと会って話しをして欲しい」と誘い出し。船に乗せて石垣へ向かう途中、狭い船上で獅子嘉殿の力を封じ殺して海に捨ててしまう。その死体は小浜に流れ着いたという。嵩茶は歴史には余り記録が見られないが、「オヤケアカハチ~太陽の乱~」では、アカハチをサポートする重要な役で登場する。
この後、宮古へ逃れた長田大主からの報告で、宮古の仲宗根豊見親が首里王府にアカハチの状況を知らせる。
首里王府は、ついに沖縄本島・久米島・宮古から兵を集め、百隻の船に三千名の兵を乗せて、赤蜂征伐に動き出します。
続く 文責 やいま浪漫の会
2006年01月10日
オヤケアカハチ考その4
アカハチと長田大主(ナータフージィ)
ここで、長田大主が妹古乙姥を嫁がせてまでアカハチを亡き者にしたかった前後関係を見てみたい。
長田大主は宮古島の仲宗根豊見親の子と云われている。首里王府や宮古に八重山の島々を従わせようとする長田大主は、アカハチが台頭し島々の民を見方に巻き込むに従って、対立するようになる。
今の石垣浄水場のある平得上原辺りは大浜と四箇の中間になり、豊富な湧き水があったようで、田畑の水利に関してのトラブルも多かったようだ。
※長田大主には二人の妹がいた。真乙婆(マイツバ)と古乙婆(クイツバ)である。弟には那礼當と那礼重の二人がいたが、アカハチに殺害されたとあるが、この殺害に関する状況の資料はまだ見つかりません。
このように、徐々にアカハチの力が強くなり、自分の身に危険を感じるようになる、とともに長田大主がアカハチと戦った理由の最たるもの次のように考えられる
。
それは、首里王府に対して反感を持つアカハチが八重山諸島を支配するようになることは、中国や東南アジアへの交易ルートに大きな障害になる。首里王府がアカハチ征討に踏み切ったのは、「首里への入貢を断る」と言った事を理由に、八重山を首里王府の中に統合し安定した交易ルートを確保しようとしたからだと云われる。
その首里王府と宮古の豪族の先鋒が長田大主である。そのころのアカハチの勢いは宮古をも脅かすような勢いがあったと云われる。

2004年の公演より
そこで、長田大主が策略を用い始める。前記した毒殺計画で失敗した後、妹の古乙婆を嫁がせることを考えた。妹を嫁がせれば当分自分に刃を向くことはしないだろうとの考え、いわゆる政略結婚である。
長田大主は、妹の古乙姥に隙を見て「この薬でアカハチを殺せ。」と南蛮渡りの毒薬を与えた。古乙姥は兄の言うことを断ることもできずにアカハチと結婚する。
ところがアカハチは力があって頭脳明晰、村人に対しても親切で誠実だった。兄の言うような悪人でも恐ろしい人間でもなく、古乙姥は逆にアカハチのことを本当に好きになってしまった。
結局古乙婆は兄の言いつけを果たせず、逆にアカハチは長田大主の企みを全て知ってしまったことになる。
古乙婆は弟二人を殺してしまった本人、また、兄の敵でもあるアカハチを好きになってしまったわけで、女心もなかなか難しいが、八重山初の悲劇のヒロインとして、その名前は語り継がれている。
アカハチと古乙婆の悲恋は、「オヤケアカハチ~太陽の乱~」のなかでも、重要なシーンとして出てくる。平田大一氏がどのような演出をするか、見てのお楽しみ~~~。
古乙婆がアカハチと意を通じたことにより、アカハチに対する企みが明らかになってしまったので、長田大主は四箇に住むことができなくなり、石垣島西部の屋良部の海岸に逃げ、その洞窟に隠れ芭蕉で筏を造り由布島を通って西表の古見に渡り、祖内の慶来慶田城の元に身を寄せ、事の次第を宮古・首里王府へと知らせた。
この逃走劇にはいくつかの物語があるが、その考察はまたの機会に。
続く 分責 やいま浪漫の会
ここで、長田大主が妹古乙姥を嫁がせてまでアカハチを亡き者にしたかった前後関係を見てみたい。
長田大主は宮古島の仲宗根豊見親の子と云われている。首里王府や宮古に八重山の島々を従わせようとする長田大主は、アカハチが台頭し島々の民を見方に巻き込むに従って、対立するようになる。
今の石垣浄水場のある平得上原辺りは大浜と四箇の中間になり、豊富な湧き水があったようで、田畑の水利に関してのトラブルも多かったようだ。
※長田大主には二人の妹がいた。真乙婆(マイツバ)と古乙婆(クイツバ)である。弟には那礼當と那礼重の二人がいたが、アカハチに殺害されたとあるが、この殺害に関する状況の資料はまだ見つかりません。
このように、徐々にアカハチの力が強くなり、自分の身に危険を感じるようになる、とともに長田大主がアカハチと戦った理由の最たるもの次のように考えられる
。
それは、首里王府に対して反感を持つアカハチが八重山諸島を支配するようになることは、中国や東南アジアへの交易ルートに大きな障害になる。首里王府がアカハチ征討に踏み切ったのは、「首里への入貢を断る」と言った事を理由に、八重山を首里王府の中に統合し安定した交易ルートを確保しようとしたからだと云われる。
その首里王府と宮古の豪族の先鋒が長田大主である。そのころのアカハチの勢いは宮古をも脅かすような勢いがあったと云われる。

2004年の公演より
そこで、長田大主が策略を用い始める。前記した毒殺計画で失敗した後、妹の古乙婆を嫁がせることを考えた。妹を嫁がせれば当分自分に刃を向くことはしないだろうとの考え、いわゆる政略結婚である。
長田大主は、妹の古乙姥に隙を見て「この薬でアカハチを殺せ。」と南蛮渡りの毒薬を与えた。古乙姥は兄の言うことを断ることもできずにアカハチと結婚する。
ところがアカハチは力があって頭脳明晰、村人に対しても親切で誠実だった。兄の言うような悪人でも恐ろしい人間でもなく、古乙姥は逆にアカハチのことを本当に好きになってしまった。
結局古乙婆は兄の言いつけを果たせず、逆にアカハチは長田大主の企みを全て知ってしまったことになる。
古乙婆は弟二人を殺してしまった本人、また、兄の敵でもあるアカハチを好きになってしまったわけで、女心もなかなか難しいが、八重山初の悲劇のヒロインとして、その名前は語り継がれている。
アカハチと古乙婆の悲恋は、「オヤケアカハチ~太陽の乱~」のなかでも、重要なシーンとして出てくる。平田大一氏がどのような演出をするか、見てのお楽しみ~~~。
古乙婆がアカハチと意を通じたことにより、アカハチに対する企みが明らかになってしまったので、長田大主は四箇に住むことができなくなり、石垣島西部の屋良部の海岸に逃げ、その洞窟に隠れ芭蕉で筏を造り由布島を通って西表の古見に渡り、祖内の慶来慶田城の元に身を寄せ、事の次第を宮古・首里王府へと知らせた。
この逃走劇にはいくつかの物語があるが、その考察はまたの機会に。
続く 分責 やいま浪漫の会
2006年01月06日
オヤケアカハチ考その3
オヤケアカハチと長田大主(ナータフージィ)
さて、アカハチは育つにつれ体格も大きく頭も優れていた。
同時代に生きた長田大主(宮古の仲宗根豊見親の子といわれる)も波照間島の生まれで、アカハチと一緒に遊んでいた幼馴染みだが、オヤケアカハチよりも早く石垣島に渡った。長田大主は、父親といわれる宮古の支配者仲宗根豊見親(ナカソネトヨミオヤ)の勢力を借り、石垣の四箇字(現在の石垣・登野城・大川・新川)を支配した。

長田大主生誕の地(波照間島)
当時、八重山の中心地といわれた西表島の祖納には、平家の子孫と伝えられる慶来慶田城(ケライケダグスク)が、石垣島の西北の川平には仲間満慶山(ナカマミツケーマ)、四箇には長田大主、石垣島北端の平久保には平久保加奈按司(ヒラクボカナアンジ)、波照間には獅子嘉殿(シシカドゥン)がまとめていたと伝えられている。いわゆる群雄割拠の時代である。
このように、波照間島からオヤケアカハチ、長田大主、獅子嘉殿と多くの雄が輩出されたことも興味深い。
平久保加奈按司は稲・粟を作り牛馬を3~4百頭も飼っていた。しかし、周辺の百姓を脅して奴隷のように扱っていたため、慶来慶田城によって討伐されたことになっている。
現在、平野集落にある平野第二遺跡は加奈按司の館跡と伝えられ、八重山式土器や須恵器、青磁等が採取される。その大半は明の時代の物である。
オヤケアカハチは波照間島から小舟に乗り、島の東海岸の野底にたどりついた。当時の石垣島の人口は、600人程度だったという。そこから、村人に尋ね当時石垣島で最も大きい村「大浜(ホーマ)村」へ行くことになる。その当時大浜村は、今の大浜地区西端にあるフルストバル遺跡と呼ばれるところにあった。
フルストバル遺跡は、南北900m、東西1400m、面積12haにわたる大規模な物で、宮良川の入り江に近い崖の上に位置する。崖の下には井戸があり、外敵に対する防御にも都合が良く、海外交易にも便利な場所である。現在は国指定の文化財としてその一部が復元・保全されている。

フルストバル遺跡
アカハチが村に入るとその風貌から大浜の人達は、「鬼が来た。」と言って恐れた。ここでも「赤い髪」に「青い目」という表現が浮かび上がる。
しかし、アカハチはやがて村人にとけ込んでゆく。村のために良く働き、人々を助けたので、次第に慕われるようになってきた。
大浜村は、近くの島々との交通も盛んで、しだいに周辺の竹富島や小浜島でもアカハチに従う者が多くなっきた。アカハチの勢力が広がってゆくと長田大主との対立が始まってくる。そこここで諍いが始まり、やがてアカハチの勢力は長田大主の支配する四箇さえも脅かすようになってきた。
長田大主は武力的に、アカハチに対抗できそうもなかったため、いくつかの策略を巡らせることになる。
あるとき、アカハチがが長田大主の所に、島々のことを相談するために訪れた。長田大主は日頃の諍いを忘れたように歓待した。ところが歓迎の料理を鶏がついばむとその場で死んでしまった。毒を盛ったのである。怒ったアカハチが刀で斬りつけようとするが周囲の物に止められて大浜へ帰ることになる。
次に長田大主が思いついたのが妹の古乙姥をアカハチに嫁がせることであった。
続く 文責 やいま浪漫の会
さて、アカハチは育つにつれ体格も大きく頭も優れていた。
同時代に生きた長田大主(宮古の仲宗根豊見親の子といわれる)も波照間島の生まれで、アカハチと一緒に遊んでいた幼馴染みだが、オヤケアカハチよりも早く石垣島に渡った。長田大主は、父親といわれる宮古の支配者仲宗根豊見親(ナカソネトヨミオヤ)の勢力を借り、石垣の四箇字(現在の石垣・登野城・大川・新川)を支配した。

長田大主生誕の地(波照間島)
当時、八重山の中心地といわれた西表島の祖納には、平家の子孫と伝えられる慶来慶田城(ケライケダグスク)が、石垣島の西北の川平には仲間満慶山(ナカマミツケーマ)、四箇には長田大主、石垣島北端の平久保には平久保加奈按司(ヒラクボカナアンジ)、波照間には獅子嘉殿(シシカドゥン)がまとめていたと伝えられている。いわゆる群雄割拠の時代である。
このように、波照間島からオヤケアカハチ、長田大主、獅子嘉殿と多くの雄が輩出されたことも興味深い。
平久保加奈按司は稲・粟を作り牛馬を3~4百頭も飼っていた。しかし、周辺の百姓を脅して奴隷のように扱っていたため、慶来慶田城によって討伐されたことになっている。
現在、平野集落にある平野第二遺跡は加奈按司の館跡と伝えられ、八重山式土器や須恵器、青磁等が採取される。その大半は明の時代の物である。
オヤケアカハチは波照間島から小舟に乗り、島の東海岸の野底にたどりついた。当時の石垣島の人口は、600人程度だったという。そこから、村人に尋ね当時石垣島で最も大きい村「大浜(ホーマ)村」へ行くことになる。その当時大浜村は、今の大浜地区西端にあるフルストバル遺跡と呼ばれるところにあった。
フルストバル遺跡は、南北900m、東西1400m、面積12haにわたる大規模な物で、宮良川の入り江に近い崖の上に位置する。崖の下には井戸があり、外敵に対する防御にも都合が良く、海外交易にも便利な場所である。現在は国指定の文化財としてその一部が復元・保全されている。

フルストバル遺跡
アカハチが村に入るとその風貌から大浜の人達は、「鬼が来た。」と言って恐れた。ここでも「赤い髪」に「青い目」という表現が浮かび上がる。
しかし、アカハチはやがて村人にとけ込んでゆく。村のために良く働き、人々を助けたので、次第に慕われるようになってきた。
大浜村は、近くの島々との交通も盛んで、しだいに周辺の竹富島や小浜島でもアカハチに従う者が多くなっきた。アカハチの勢力が広がってゆくと長田大主との対立が始まってくる。そこここで諍いが始まり、やがてアカハチの勢力は長田大主の支配する四箇さえも脅かすようになってきた。
長田大主は武力的に、アカハチに対抗できそうもなかったため、いくつかの策略を巡らせることになる。
あるとき、アカハチがが長田大主の所に、島々のことを相談するために訪れた。長田大主は日頃の諍いを忘れたように歓待した。ところが歓迎の料理を鶏がついばむとその場で死んでしまった。毒を盛ったのである。怒ったアカハチが刀で斬りつけようとするが周囲の物に止められて大浜へ帰ることになる。
次に長田大主が思いついたのが妹の古乙姥をアカハチに嫁がせることであった。
続く 文責 やいま浪漫の会
2006年01月04日
オヤケアカハチ考その2

オヤケアカハチ生誕の碑(波照間島)
アカハチ誕生物語り
オヤケアカハチは波照間島で生まれました。ただ、その誕生については多くの説があります。
1・赤ん坊がコモに巻かれて流れ着き、アダンの下で泣いた。それを見つけた村人が古老に伝えると、その古老は「どこを向いて泣いているか」と聞いた。「東に向かって泣いている」と答えると、「それは神の子だ、連れてこい。」ということで村に連れてきて養ったという。
2・八重山の自然と人情を愛し石垣島測候所の2代目所長だった岩崎卓爾の『ひるぎの一葉』(大正9年刊)には次のように書かれています。
野生ノ豪侠児不遇ノ「オヤケ、アカハチ」生ル。容貌魁偉、頭髪赤赭、長ク垂レ、歯ハ已二成人ノ如ク生イ、眼光人ヲ射殺ス。産婦其ノ怪悪ノ形状ニ驚キ、哺乳養育スルニ忍ビズ、他聞ヲ憚リ裙袴ニ包ミ、夜初更窃カニ海中岩礁二捨テテ去ル。生児ハ涛ノ鞺々轟々、壮烈ナル波ノ響、波シブキヲ真額二浴ビツツ熟睡セリ。天明ケ海舟、岩礁ニ生児ヲ認メ拾収シテ育テリ。(この部分麻生伸一氏の竹富町の海寇民話から転記させていただきました。
3・波照間の東海岸にミンピガーという潮が吹き出てるところがあり、その側に捨てられて泣いてる赤ん坊がいた。見つけた人が年寄りに相談すると、「東に向かって泣いているなら連れてきなさい。西に向かって泣いているなら連れてくるな。」と言う。東に向かって泣いてので、育てられたと伝えられている。
4・難破船から助けられた男と波照間島の司の間に出来た子がアカハチである。神を祀る司は結婚してはならない。そこで、司以外の立入りが許されない御嶽の中で子どもを産んだ。その子を浜に捨てておき、拾ったことにして育てた。
5・韓国の伝説的義賊「洪吉童」(ホンギルトン)が日本へ渡って「オヤケアカハチホンガワラ」となった。ホンガワラはホンギルトンからきている?。
真実はどうであるかはともかく、4番と関係があるかもしれないが、波照間島にはゲート・ホーラーという正史には記述されていない人がいた、オランダ船が漂着して、上陸したオランダ人と、加屋本の女が結婚して生まれたのがホーラー。その子孫は体格が大きく、鼻も高い。ただし、バスコダガマがインド航路を開いたのがアカハチが生まれたとされる年より数十年前と云うことでこれも?がつきます。
このようにいくつもの説があるが、髪の色や風貌などを考えると、外国人であった可能性は高いと思われます。5番目の韓国の義賊説は韓国では教科書にも載っているようで、大浜長照石垣市長も大変乗り気で、「オヤケアカハチ~太陽の乱」の韓国公演をことあるごとに周囲に話をしています。八重山 ←→ 韓国親善にも一役たてたいようですね。ただ、石垣島の川平や白保地区などの方言には韓国語と近似した表現も残っており、韓国とのある程度の行き来があったように思われます。
ともあれ、誕生だけでもこの様な伝承民話的な話が数多くあり、ますますオヤケアカハチの人となりは興味深い。
続く 文責 やいま浪漫の会
2006年01月03日
オヤケアカハチ考その1
オヤケアカハチ考その1
この演劇の主人公「オヤケアカハチ」は西暦1500年頃の八重山に実在した人物です。子ども達が演じる劇の500年前当時の八重山を、様々な資料を基に考えてみたいと思います。
時代背景
1300年の終わり頃に中国で明国を打ちたてた洪武帝は、周辺国に対して明への朝貢を要求します。沖縄本島では、まず中山王察度がこの呼びかけに応じて入貢しました。これが琉球と中国の朝貢関係の始まりです。以後、南山の承察度、北山の怕尼芝が入貢します。沖縄の三山という名称は、この入貢を果たした時に、中国から与えられたもののようです。
その後、宮古の与那覇勢頭豊見親が中山王に入貢し、その与那覇勢頭豊見親の誘いで八重山が入貢するようになったと云われます。
世界を見廻すと1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見、1498年にはバスコダガマがインドのカリカットに到着しインド航路を開拓したりと、いわゆる大航海時代です。
当時、八重山の中心は石垣島ではなく、西表島の祖内周辺といわれています。
この演劇に出てくる主人公「オヤケアカハチ」をはじめ「長田大主」「仲間満慶山」」「獅子嘉殿」をはじめ当時代に生きた人物像を、3月4日の「オヤケアカハチ~太陽の乱」本公演までの間に何回かに分けて考察してゆきましょう。
最近までは首里王府が残した文献がメインで語られてきましたが、八重山で語り継がれた歴史も併せながら歴史の旅へ出たいと思います。
この演劇の主人公「オヤケアカハチ」は西暦1500年頃の八重山に実在した人物です。子ども達が演じる劇の500年前当時の八重山を、様々な資料を基に考えてみたいと思います。
時代背景
1300年の終わり頃に中国で明国を打ちたてた洪武帝は、周辺国に対して明への朝貢を要求します。沖縄本島では、まず中山王察度がこの呼びかけに応じて入貢しました。これが琉球と中国の朝貢関係の始まりです。以後、南山の承察度、北山の怕尼芝が入貢します。沖縄の三山という名称は、この入貢を果たした時に、中国から与えられたもののようです。
その後、宮古の与那覇勢頭豊見親が中山王に入貢し、その与那覇勢頭豊見親の誘いで八重山が入貢するようになったと云われます。
世界を見廻すと1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見、1498年にはバスコダガマがインドのカリカットに到着しインド航路を開拓したりと、いわゆる大航海時代です。
当時、八重山の中心は石垣島ではなく、西表島の祖内周辺といわれています。
この演劇に出てくる主人公「オヤケアカハチ」をはじめ「長田大主」「仲間満慶山」」「獅子嘉殿」をはじめ当時代に生きた人物像を、3月4日の「オヤケアカハチ~太陽の乱」本公演までの間に何回かに分けて考察してゆきましょう。
最近までは首里王府が残した文献がメインで語られてきましたが、八重山で語り継がれた歴史も併せながら歴史の旅へ出たいと思います。


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