オヤケアカハチ考その3

WKL・やいま浪漫の会

2006年01月06日 21:37

オヤケアカハチと長田大主(ナータフージィ)

 さて、アカハチは育つにつれ体格も大きく頭も優れていた。
 同時代に生きた長田大主(宮古の仲宗根豊見親の子といわれる)も波照間島の生まれで、アカハチと一緒に遊んでいた幼馴染みだが、オヤケアカハチよりも早く石垣島に渡った。長田大主は、父親といわれる宮古の支配者仲宗根豊見親(ナカソネトヨミオヤ)の勢力を借り、石垣の四箇字(現在の石垣・登野城・大川・新川)を支配した。


長田大主生誕の地(波照間島)

 当時、八重山の中心地といわれた西表島の祖納には、平家の子孫と伝えられる慶来慶田城(ケライケダグスク)が、石垣島の西北の川平には仲間満慶山(ナカマミツケーマ)、四箇には長田大主、石垣島北端の平久保には平久保加奈按司(ヒラクボカナアンジ)、波照間には獅子嘉殿(シシカドゥン)がまとめていたと伝えられている。いわゆる群雄割拠の時代である。
 このように、波照間島からオヤケアカハチ、長田大主、獅子嘉殿と多くの雄が輩出されたことも興味深い。

 平久保加奈按司は稲・粟を作り牛馬を3~4百頭も飼っていた。しかし、周辺の百姓を脅して奴隷のように扱っていたため、慶来慶田城によって討伐されたことになっている。
 現在、平野集落にある平野第二遺跡は加奈按司の館跡と伝えられ、八重山式土器や須恵器、青磁等が採取される。その大半は明の時代の物である。
 
 オヤケアカハチは波照間島から小舟に乗り、島の東海岸の野底にたどりついた。当時の石垣島の人口は、600人程度だったという。そこから、村人に尋ね当時石垣島で最も大きい村「大浜(ホーマ)村」へ行くことになる。その当時大浜村は、今の大浜地区西端にあるフルストバル遺跡と呼ばれるところにあった。

 フルストバル遺跡は、南北900m、東西1400m、面積12haにわたる大規模な物で、宮良川の入り江に近い崖の上に位置する。崖の下には井戸があり、外敵に対する防御にも都合が良く、海外交易にも便利な場所である。現在は国指定の文化財としてその一部が復元・保全されている。


フルストバル遺跡


 アカハチが村に入るとその風貌から大浜の人達は、「鬼が来た。」と言って恐れた。ここでも「赤い髪」に「青い目」という表現が浮かび上がる。
 しかし、アカハチはやがて村人にとけ込んでゆく。村のために良く働き、人々を助けたので、次第に慕われるようになってきた。

 大浜村は、近くの島々との交通も盛んで、しだいに周辺の竹富島や小浜島でもアカハチに従う者が多くなっきた。アカハチの勢力が広がってゆくと長田大主との対立が始まってくる。そこここで諍いが始まり、やがてアカハチの勢力は長田大主の支配する四箇さえも脅かすようになってきた。

 長田大主は武力的に、アカハチに対抗できそうもなかったため、いくつかの策略を巡らせることになる。
 あるとき、アカハチがが長田大主の所に、島々のことを相談するために訪れた。長田大主は日頃の諍いを忘れたように歓待した。ところが歓迎の料理を鶏がついばむとその場で死んでしまった。毒を盛ったのである。怒ったアカハチが刀で斬りつけようとするが周囲の物に止められて大浜へ帰ることになる。

 次に長田大主が思いついたのが妹の古乙姥をアカハチに嫁がせることであった。

続く                                           文責   やいま浪漫の会

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