オヤケアカハチ考その6

WKL・やいま浪漫の会

2006年02月20日 23:17

 この時アカハチは策を巡らせます。まず、新川の海岸に押し寄せて来る首里軍の目を欺くため、水甕にアダン葉で作った蓑笠を着せて並べた。首里軍は数千の矢を雨のように降らせたが、並んでいるの水瓶であり、首里軍はその策に驚いた。
 同行していた久米島の最高神女の君南風が、姉妹神の於茂登照の神に願をかけると、「アカハチは優れた武将だから、普通では勝てない。筏に火を灯しそれに目が向いている間に攻めればよい。」というお告げがあった。
首里軍は教えのまま、竹で沢山の筏を作り、それに火をかけて登野城に向けて流した。アカハチは、敵襲とばかり味方の軍勢を筏が流れて行く登野城方面に回すと、首里軍は裏をかき、新川の海岸から上陸した。互いの囮作戦である。
しかしアカハチが、島中の人を集めていくら戦っても、三千の兵とまともに戦うことはできなかった。やがて、首里軍に追われた赤蜂は於茂登山の麓、底原(そこばる)に逃げた。(現在のロックフィル式の大きなダムの下の方にある水田地帯と云われている。)
しかし遅れて来た古乙姥は首里軍に捕まってしまう。首里軍はアカハチの居場所を聞き出すために古乙姥の足に脛枷(スネカセ)噛ませて拷問した。しかし、古乙姥は最後まで白状しなかった。それを木に登って身を潜めていたアカハチは等々いたたまれなくなり、「アカハチはこっちに居るぞ。」と叫ぶ。アカハチは首里軍に矢を射掛けられ応戦した。
多くの敵兵を倒し、逃げ回ったがさすがに疲れていたので、敵がいないのを確かめて、茅を敷いて寝た。しかし、休む間もなく敵が追ってきたので、武名田原(ぶなたばる)の水田に沈み、蓮の茎をストローのように使い水中で息をして隠れていた。追っ手は探し回ったが見つからず、帰り掛けようとするとたまたま探った槍の先の水中が真っ赤に染まり、アカハチは見つかってしまい、泥田の中で最期をとげることになる。

終戦後、オヤケアカハチは地元で再評価され、大浜の人達が昭和28年に崎原公園内に顕彰碑を建立した。



戦乱のときに殺された古乙姥は、姉の真乙姥を祀る真乙姥御嶽の入口近い場所に葬られたといわれ、泡石で作られた平らな墓は蝸牛墓(つだみばか)呼ばれており、毎年の四箇の綱引きのときに裏切り者として踏まれていた。
実際にはその下に古乙姥の遺骨は埋まっておらず、昭和45年に大浜の人達の度重なる要望で、赤蜂たちの骨を探すことになる。
今の真乙姥御嶽の司の代々の伝えにより、真乙姥御嶽の後ろに泡石の石組みが見つかり、その下から遺骨が掘り出された。これはアカハチの物とも古乙姥の物とも言われているが、大浜へ運ばれ赤蜂の顕彰碑の下に納められた。



ところが4年前に遺骨の出た近くに同様の泡石の石組みが見つかり、それを開けてみたところ骨壺が出てきた。当時に関係者は、反逆者といわれた二人にしては立派な壺のため、中を確かめることもせず、再び埋め戻したという。
大浜村の伝えでは、アカハチは時の王府の手により歴史上から抹殺されようとしたようで、関係する全ての物の所在は不明といわれている。
現代ではDNA鑑定でもしたら判明するのでは等と言う輩もいるが、謎は多い方がそれぞれの夢として語り継がれるだろう。

仲間満慶山の遺品は現在でも川平の末裔の手で、衣装から食器まで大事に保管されていることを考えると、複雑な思いが残る。

つづく                やいま浪漫の会

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